熊﨑式姓名学®の考案者 熊﨑 健翁(くまさき けんおう)

五聖閣設立者であり日本姓名学始祖 熊﨑健翁とは?

熊﨑健翁は、新聞界で活躍する傍ら易学を究め、「熊﨑式姓名学®」を考案した人物です。

昭和2年(1927 年)時事新報社退職後、昭和3年(1928年)現在の地である東京大森に五聖閣を創業しました。昭和4年1月1日姓名学を公式発表、熊﨑式姓名学®の姓名判断法を『主婦の友社新年号』で発表しました。同年6月に発行した『姓名の神秘』は大ベストセラーとなり、現在も姓名判断のバイブルとして重版発行され続け、平成31年には発行90周年となり、不朽の名作として愛され続け、現代の名付けの方法として全国・世界に広まっています。その他『易占の神秘』(昭和6年発行)や『運命の神秘』(昭和4年発行)など実業之日本社発行の神秘シリーズをはじめ、姓名学を中心に数多くの書籍を執筆し、日本の文化発展に寄与しました。

熊﨑の起こした事業には、熊﨑の創案した姓名学を使っての個人の命名の他、特に会社名、芸名、雅号に多くの実績を誇ります。また、各界の要人達から厚い信頼を寄せられた易学などの鑑定事業も繫栄し、講学局では後進の指導と門人を全国に抱え、出版局、広告局で全国や外国にも五聖閣の名を轟かせました。そして晩年に至るまで精力的に出版や教育活動を続け、多くの実績を残しました。昭和26年衆議院法務委員会での「漢字制限について」の講演の依頼により、その後の人名用漢字の追加に大きな貢献を果たしました。また、大森区会議員や東京府連合教育会の大森区教育会副会長を務めるなど、地域社会活動にも貢献しました。

熊﨑式姓名学を創案し、 日本の運命学の普及と発展に貢献し、速記術を考案した業績に加え、教育委員や区議会議員など地域貢献にも活躍した熊﨑健翁の多くの功績を称えて、五聖閣の創立日2月11日が「熊﨑健翁記念日」に制定されました。そして、平成26年故郷の岐阜県立博物館にて展覧会が開かれ、熊﨑健翁の業績が紹介されました。

誕生から新聞記者時代

熊﨑は、岐阜県恵那郡(現在の恵那市)に生まれました。

13 歳で教壇に立ち、教員試験ではただ一人全教科満点、最年少で合格し、「東海の麒麟児現る」と新聞で紹介され、また、いつも本を手に持ち歩く姿は岐阜の二宮金次郎とも言われたと伝えられています。

のちに新聞記者として活躍し、時事新報社時代には関東大震災を経験しました。社屋被災の中、各新聞社の中でただ1社翌日には新聞発行(号外)を行う体制を作るなど、大いに活躍しました(『時事新報大震災復興録』出版時事新報社 熊﨑著参照)。

また、新聞記者時代には、速記術の考案や、内閣府および明治神宮造営局の依頼を受け明治神宮造営奉仕のために上京した青年団に対し講演活動を行うなど、活躍の場を広げました。

明治14年(1881年) 岐阜県恵那郡(現在の恵那市)に生まれる。
明治34年(1901年) 中京新聞社に入社。三重成功新聞で主筆を務め、伊勢新聞などで記者として活躍。
明治36年(1903年) 後の内閣総理大臣になる社長原敬に招聘され大阪新報に入社。
明治38年(1905年) 東京に移り、福沢諭吉の次男捨次郎が社長を務める時事新報社へ入社。
明治36年(1903年) 熊﨑式速記を発表し、続いて支那語速記を作るなど、速記界でも多大な功績を残した。
明治39年(1906年) 『最新簡明速記術』を出版(帝国速記學會)。
明治41年(1908年) 志那語速記術を中国政府に献上し、賞賛を受ける。『支那語速記術』(支那資政院)出版。
大正元年(1912年)『日本百科大辞典』(三省堂)速記術のページを担当し執筆しました。
大正 3年(1914年) 『新式速記術独習』(博文館)が天覧台覧を賜る。
大正 9年(1920年) 内閣府および明治神宮造営局の依頼を受け、明治神宮造営奉仕のために上京した青年団に対し、講演活動を開始。
大正12年(1923年) 9月1日、関東大震災の発生により、新聞発行復旧のため尽力。号外発行。
大正14年(1925年) 大正11年発行された、熊﨑の伝記『修養実訓 奮闘之快感』(長久社)が増補再版され、皇太子裕仁殿下・秩父宮雍仁殿下の内覧を賜る。
昭和 2年(1927年) 日本新聞学院教授に就任。時事新報社退職。

五聖閣設立から晩年

新聞記者を退職後、東京大森の地に五聖閣を設立しました。熊﨑式姓名学®を発表後、執筆活動を積極的に行い、昭和36年(1961年)に死去するまで多くの書籍を刊行しました。また、晩年は熱海の地で、海を見ながら余生を過ごしました。

昭和 3年(1928年) 東京大森に五聖閣を設立。
昭和 4年(1929年) 1月1日に姓名学を公式発表。雑誌「主婦の友新年号」付録にて、世に初めて熊﨑式姓名学®の姓名判断法を発表。同年6月『姓名の神秘』(実業之日本社)刊行。大ベストセラーとなり、現在も姓名判断のバイブルとなる。
昭和 5年(1930年) 『運命の神秘』(実業之日本社)刊行。
昭和 6年(1931年) 『易占の神秘』(実業之日本社)刊行。
昭和 7年(1932年) 『熊﨑易本義』刊行。五聖閣講学局設立。推薦にて東京市大森区議会議員となる。五聖閣神田出張所開設。
昭和9年(1934年)『愛児の恵福 出世名の附け方』(丸の内出版社)出版。日本で初めての赤ちゃんの名付けの本が出版され、戦前戦後も次々と出版され、赤ちゃんの名付けを牽引しました。
昭和 9年(1934年) 五聖閣京橋出張所開設。
昭和15年(1940年) 『印相の神秘』刊行。姓名学を取り入れた印相学が広まる。
昭和16年(1941年) 入新井第四国民学校において二宮尊徳像除幕式が行われ、講演。
昭和36年(1961年) 熱海の地にて死去。80歳。

熊﨑式姓名学®を用いた五聖閣の事業

五聖閣では、熊﨑式姓名学®を用い、命名、改名に留まらず様々な事業を展開しています。ご興味持たれましたら、ぜひ下記より詳細をご覧ください。